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2022年05月06日

ベルセルク最終回はこうなる! “ハッピーエンドが可能な根拠”考察と予想

どうも!ベルセルクファンの正宗です。

故・三浦健太郎氏によって描かれた未完の超大編ダークファンタジー作品『ベルセルク』。

今までの物語の展開的に、普通に考えたらハッピーエンドの可能性は無さそうな感じに思えますが、作者である三浦健太郎氏本人は、生前「ベルセルクはハッピーエンドで終わる」と発言しておられました。

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https://twitter.com/m_k_yamada/status/1395216347500482560?ref_src=twsrc%5Etfw


『ベルセルクでハッピーエンドとかホンマに出来るんか?』と思うかもしれませんが、実は出来ます。

今までに描かれてきたベルセルクのいくつかのシーンを伏線として組み上げると、ベルセルクはちゃんとハッピーエンドになるんですね。

どうすればハッピーエンドになるのか?

お話しましょう。

以下は私の個人的考察となります。ネタバレありの記事となります。ご了承ください)


■ベルセルク最終局面で何が起こるのか?


1、ガッツはグリフィスを討ち取ります

2、そのガッツを今度はテレジアが討ち取ります

3、ガッツ死亡→ハッピーエンド



『は?フザケンなよコレのどこがハッピーエンドじゃこのボケが』という声が聞こえてきそうです。

ではその“ハッピーエンドの根拠”を説明しましょう。


■ハッピーエンドの根拠



グリフィスについて

グリフィスは子供の頃からの夢だった『自分の国』を手に入れました。

さらに、今までずっと周りには敵と部下と駒しかいませんでしたが、かつて人間だった頃にも自分を打ち負かし、フェムトに転生したにも関わらず再び自分を打ち負かした真に“対等の者=ガッツ”という存在を自分の人生で手に入れました。

グリフィスvsガッツの通算戦績は、ガッツが鷹の団へ入団/退団する際に一勝一敗、フェムト転生後と最終局面で一勝一敗となるので、まさに実力伯仲の対等の者と言えるでしょう。(というよりも、蝕、単行本3巻での降魔の儀、剣の丘での再会の時など、グリフィスはガッツを『殺そうと思えば殺せるけど、殺さなかった』という描写が見て取れるので、実質的にはグリフィスの方が優勢ですね)

そして、グリフィスから『俺に夢を忘れさせた』『どうやら俺は自由だ(トクン...)』『満月の夜に幼子になって懐かしい温もりに抱かれるんだ』というセリフが出てくるところを見るに、精神的なポジションにおいては、グリフィスにとってガッツは対等どころかむしろそれより上の存在だという事が示唆されていると言えます。

グリフィスの思考の根底には『夢という名の神の殉教者として一生を終えることは男のロマン』『自分の夢を踏みにじる者があれば、それがグリフィス自身だとしても全身全霊をかけて立ち向かう対等の者こそが私の友』という考えがあります。(※単行本6巻『貴きもの』 プロムローズ館でのシーン)

夢を叶え、友を得たグリフィスは、散り際に幸せを感じることが出来たのではないでしょうか?


ガッツについて

ガッツの考える幸せの定義は『やりたいようにやって死ぬこと』です。(※単行本1巻『烙印』 馬車内での会話シーン)

補足事項
上記のガッツの考える幸せの定義『やりたいようにやって死ぬこと』は、使徒唯一の戒律である『望むままを行う』と同じ意味を持っていることに気が付かれたでしょうか?

グリフィスはゴッドハンドであり、使徒とはまた違う立ち位置なのかもしれませんが、ゴッドハンドと使徒の両者が同種・同系統の存在であることは確かと言えると思います。

そう、フェムトとなったグリフィスも『望むままを行う』のです。

なぜ、ガッツが使徒の戒律と同じ意味の言葉を口にするのか?

恐らくこれは、三浦健太郎氏によって意図されて描かれた“符牒”です。

この符牒が、ベルセルクがハッピーエンドを迎えるための重要な要素の内のひとつになると私は予想しています。(符牒回収の詳細は、この下↓の文章10個分あとで!)



また、ガッツの本当に欲しいものは『自分を必要としてくれる仲間』です。(※単行本12巻『黄昏の戦士たち』 丘でのシーン)

ガッツはこのどちらも手に入れました。

仲間を得て、やりたいようにやったのです。

鷹の団時代も、現状のガッツパーティの仲間も、ガッツを必要としてくれる人はずっと周りにいました。

そして、蝕以降のガッツの人生を賭けた悲願である『グリフィスへの復讐』もきっちり成し遂げています。


もう一点。

もともとガッツはグリフィスと『対等の者』になりたくて鷹の団を抜けました。

そして前述した通り、グリフィス側の視点から見ると、ガッツはグリフィスの対等の者として唯一の相応しい人物でした。

グリフィスが死の間際に『ガッツは自分にとって真に対等の者だった』という告白をすることも十分に予想できます。

その時ガッツは、鷹の団の仲間を生贄に捧げたこと全てまでは許せなかったとしても、グリフィスが自分を対等の者と認めたこと、さらにグリフィスはグリフィスで“死ぬまでやりたいようにやっただけ”の、ガッツの考える『幸せ者』だったとして、ほんの少しだけ精神的に歩み寄ることが出来る余地が生まれます。

ゴドーはガッツに「憎しみとは悲しみに面と向かって腰を据えられない者が逃げ込む場所」、「復讐とは血錆びた剣をさらに血溜まりに漬けて磨ぐようなもの」と言っていました。

復讐のために憎み続けていると、ガッツの心はガッツ自身から憎しみ以外の全てを削り取り、最終的にはガッツの心自体が憎しみによって完全にバラバラに砕けてしまうのです。

ガッツが復讐心=憎しみを捨て、悲しみに面と向かって腰を据えるには、グリフィスへの精神的な歩み寄りが不可欠であり、その可能性が一番高いタイミングが『グリフィスの死の直前』なのではないかと思われます。

ガッツは、最後の最後で憎しみを捨て去ることが出来るのです。


テレジアについて

テレジアって誰だっけ?という人も、もしかしたら多いかもしれません。

テレジアとは、単行本1巻〜3巻まで続いた『欲望の守護天使』に出てきた、ナメクジ野郎こと伯爵の一人娘です。

三浦健太郎氏は、このテレジアを初めからベルセルクストーリー上の超重要人物として使うために物語初期に配置していた可能性が極めて高いです。

テレジアを“ベルセルク初期に出てきたポッと出のモブキャラ”としてしか認識していないと、到底受け入れられない説ですよね。

しかし、ベルセルクの世界観の叩き台となった『ベルセルクプロトタイプ(単行本14巻に収録)』に出てきたフリッカという少女は、外観的にグリフィスとテレジアの原案となっていることが見て取れます。

そしてそのフリッカは、ベルセルクプロトタイプにおいて『ガッツを物語の奥へと引っ張っていく牽引役』という重要な役を担っています。

フリッカから派生したと思しきグリフィスというキャラは、言うまでもなくベルセルクにおいて超重要人物です。

ならばもう一方の派生先と思しきテレジアも、ベルセルク本編において超重要人物となるに相応しい資格を潜在的に備えている、と言えるでしょう。


ベルセルク本編では、テレジアはガッツに対してはっきりと「いつか必ず殺してやる」と殺害予告をしています。

グリフィスに復讐するガッツに復讐するテレジア、という『復讐の連鎖』が作中で生まれた瞬間です。

この後テレジアは本編にはいっさい出てきていませんが、明確な死の描写もまたどこにもありません。

そして、テレジアから殺害予告を受けたガッツは、テレジアに顔を見られないようにしながら涙を流します。

このガッツの涙は、使徒だったとはいえテレジアの父親を殺してしまった負い目や、テレジアからの恨みを一身に買ってしまった悲哀、理解されるハズのない孤独感、そしてこんな立場に立たざるを得なくなってしまった自身の不条理な人生など、さまざまな感情を表したものだと思われます。

ガッツは、一般人の女性・子供には本当に弱いです。

暗がりで相手がよく確認できず、不本意にもアドニスを殺してしまった時、ガッツは自分がしてしまったことに大変なショックを受け、アドニスの手を取り、声をかけ、大きな動揺を見せました。

死後、魔物と化したコレットや、ロストチルドレンの章で子供の亡霊たちと戦う時も、ガッツは女性・子供の姿をしているものを斬り伏せることにひるみ、耐えられずに嘔吐したり狂気に落ちたりしています。

また、はっきり使徒だと認識していたのに、ロシーヌの姿が人間の少女に近かったために躊躇して斬れない、というシーンもありました。


単なる『強いだけの敵』が相手なら、ガッツがどうにかして勝つ、というイメージが湧いてきます。

たとえグリフィスを討ち取った直後の瀕死の状態のガッツだったとしても、相手が単なる強いだけの敵なら、ガッツなら死力を尽くして抗うでしょう。

少なくとも、ガッツが大人しく死を受け入れる、というイメージは湧きません。

しかしその相手がテレジアだったら?

『グリフィスに復讐する』という悲願を達成した直後=人生を賭けてやりたかったことをやり切った直後のガッツ(話の流れ的に120%確実に瀕死)がテレジアと相対したら、ガッツには自分の死を受け入れてしまう心の隙が生まれるのではないか?と思います。

そのための前提条件は単行本3巻の時点で十分に整っています。

女性・子供に弱く、父親を殺してしまったためにテレジアに心理的な負い目があるガッツに対して、テレジアには一切の躊躇はありません。

なぜなら、ガッツが隠れて泣いていたことなどテレジアは知らないからです。(テレジアの視点からだと、ガッツは自分の人生を一瞬でメチャクチャに破壊した悪魔のような人物にしか見えていません)

そして更に、テレジアが物語初期に登場してその後いっさい本編に登場しなかったことによって、物理的な時間の重み付けをすることが出来ます。

つまり、本編に出ていなかったベルセルク連載中の全ての期間を、テレジアはガッツに復讐するためにどこかで憎悪を募らせながら生き抜いてきた、と読者に対して説得力を持って描写することが出来る訳です。

また、『復讐のために生きてきたガッツが、最後は復讐される側となって死ぬ』という図式は、メタ的な視点から見ると非常に収まりの良い結びとなっています。

かくして復讐の連鎖によってガッツは死を迎えます。

ベルセルクという物語の主人公がガッツである以上、ガッツの死以降は復讐の連鎖が描写されることはなく、ここで物語は幕を閉じます。(これが出来るのは、テレジアの詳細な動向が描かれなかったことの効力でもあります。詳細が無ければ、物語に不必要な復讐の連鎖が新たに広がることはありません)

以上のように、ベルセルクという物語の幕を閉じるために、『ガッツに引導を渡す』という超重要な役割を担える人物は、物語の構造的、状況的にテレジアをおいて他にいない、と言えるのではないでしょうか?

そして、このような死を迎えたとしても、ガッツは『やりたいようにやって死ぬ』という、ガッツの考える幸せの定義から外れることはありません。


最後にもう一点、ベルセルクがハッピーエンドを迎えるために必要なピースがあります。

それは、、、


■その他のキャラはどうなるのか?


という問題です。

キャスカはもしかしたら死ぬかもしれません。

気持ち的には最後まで生き残って欲しいですが、、、


キャスカが生き残る場合

『誰かにそばにいて欲しかった』と言っていたキャスカですが、憧れだったグリフィスも愛する男だったガッツも最終的に失ってしまいます。

その空白を埋め、未来への希望を予感させる存在となるのが恐らく『月下の少年』だったのでしょう。

月下の少年は、ガッツとキャスカの子供であり、尚且つグリフィスでもあったという非常に特異な存在です。

ガッツとグリフィスを最初期から知る者であるキャスカは後日の物語の語り部として、また、月下の少年の母親として生き続け、月下の少年はガッツ、キャスカ、グリフィス、3人の未来の担い手として、次世代の希望の象徴になったのではないかと予想します。


キャスカが死ぬ場合

キャスカ以上に後日の物語の語り部となるに相応しい資格を備えた人物が、実は一人だけいます。

それがリッケルトです。

リッケルトは物語の中心から常に少し離れた場所に立ち、物語を観察する立場にありました。

蝕をまぬがれており、鷹の団壊滅後は新しく手に職をつけ、未来を見据えて生きようとする人物です。

バーキラカを通じてクシャーンと協力的な関係を築けそうなポジションにいることも、後日談的にはうまく活きる設定です。

もしキャスカが死んだとすれば、月下の少年が担っている『キャスカの未来』の重みが増すことになります。

そして語り部の役をリッケルトが担うとするなら、ベルセルクという物語からは復讐と悲劇の匂いがよりいっそう薄れ、未来の明るい展望がよりいっそう増すことになるでしょう。

ということは、キャスカが死んでいた方が月下の少年の価値は上がり、リッケルトの立ち位置を有効に活かすことができ、ベルセルクの後日談的には未来への希望の要素が増すことになります。

キャスカが死ぬ確率は、、、58%くらいですかね、、、


月下の少年

月下の少年は、上記キャスカの項でもちょっと書きましたが、次世代の希望の象徴となる存在だと思われます。

グリフィス(フェムト)の死によって月下の少年から魔の要素が抜け去り、最終的に月下の少年は、ガッツ、キャスカ、グリフィス、3人の人間の部分だけが統合された、『3人の未来の担い手』という意味を持つ存在になるのではないか?と予想しています。

都合が良すぎる展開のように思えるかもしれませんが、クシャーンの妖獣兵も魔素が抜ければワニやクジラなど本来の姿に戻っていたので、月下の少年でも同じことが起こり得るのではないか?と考えました。

この子が明るく、力強く未来を生きるシーンをラストに持ってくることで、ベルセルクはハッピーエンドを迎えることができるのではないか?と考えています。


シールケとファルネーゼ

シールケとファルネーゼは、起こった出来事の解説役としてどちらか一方は必ず生き残るでしょう。

どちらも生き残ることも十分あり得ますが、どちらも死ぬということはなさそうです。


イシドロとパック

イシドロやパックはキャラ的に死にそうにないですよねw

日常感の演出要員として生き残ると思います。

ただ、パックは生きてはいるものの、最終的には『幽界に戻る』という形で現世からは消えるかもしれません。


一番ヤバそうなのがセルピコなのですが、、、

まあ、今となっては真相は分かりませんけどね。


■さいごに


ベルセルクは時期によって描かれていることが明確ですよね。

・初期黒い剣士篇:世界観の説明と後の展開に向けての伏線作りのターン

・黄金時代篇:ガッツが闘う理由の前提作りのターン

・蝕:物語の焦点、ガッツが闘う理由のターン

そして蝕以降は、圧倒的戦力差があるグリフィスに対して、ガッツが対等に張り合えるようになるまでの説得力を積み重ねていくターンでした。

今の時点でもグリフィスにはまだまだ勝てそうにないので、今後も驚くような展開がいくつもあったに違いありません。

見たかったなぁ〜。

それと、幻造世界篇になってからちょくちょく描かれてたドラゴン、あれと絶対一度は戦ってましたよねw

見たかったなぁ〜。

ゴドーが「ドラゴンなんていもしねぇバケモンを殺すため」に作ったドラゴン殺しで、本当にドラゴンを撃ち倒して欲しかったです。

やっぱり物語って、結末がどうなるか?もすごく気になるところだけど、その結末に至るまでの過程を辿っていく部分が一番面白いですよね。

っという訳で、ベルセルクは『ガッツもグリフィスもお互いやりたいことをやり切り、最後にはお互いを認めた上で死んでいき、復讐や悲劇の匂いは薄れ、未来に希望を見出す』という形でハッピーエンドを迎えるのではないか?と私は考察しました。


『もしかしたら完結までのマイルストーンがどこかに残されてて、それをもとに他の人(特にスタジオ我画の方達)がベルセルクを引き継いだりするかもしれない』と思って今日までずっと待っていました。

どうやらそのような動きも、少なくとも当面の間は無さそうなので、今回、私の個人的なベルセルク考察を記事とさせていただきました。

2022年、5月6日。

三浦健太郎氏が亡くなって今日でちょうど一年。

本当に面白い漫画を作ってもらって、一ファンとして感謝しかありません。

・最も好きなサブキャラ:ジュドー、ルカ姉

・最も印象に残ったセリフ:「あぶろぼあ!」byシラット様、「ズバ恋!」byイバレラ、「たとえゴキブリだとて私の生命力の前には跪かざるをえまい!!もっともひざが有ればのはなしだがな〜!!」by不死身男爵アドン

・最も秀逸だと思ったタイトル:声連(セイレン)

・最も心に残ったシーン:ガッツが鷹の団を抜ける際にグリフィスと対峙した朝陽の昇る丘のシーン、蝕でグリフィスが鷹の団を捧げる直前にガッツのことを思い返すシーン、ジュドーが死の直前にキャスカのことを想うシーン、蝕の後にゴドーの工房まで追ってきた使徒めがけてガッツが初めてドラゴン殺しを振り下ろしたシーン、寿命を迎えようとしているゴドーからの説教をガッツが椅子に座って大人しく聞いているシーン、聖地アルビオンで使徒もどきが出た邪教徒の巣窟にキャスカを救うためガッツが飛び込んだシーン、etc、etc...

三浦健太郎先生、ありがとうございました。

どうぞ安らかにお眠りください。

R.I.P.





追記:
記事投稿より一ヶ月後、こんな嬉しいお知らせが!!



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自由帳 - サムライEXP posted by 正宗 at 06:00 Thanks Reading!!
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